《8杯目》ミシュラン vs. 江戸料理番付

「ミシュランガイド東京2023」が出た。美食美飲に基準を求める人々や、彼らの舌を唸らせたい料理人たちにとって、星の発表はまこと心臓バクバクの大本営発表のような大騒ぎ。書店には今週刷りたての「ミシュランガイド東京2023」が。今年も「どこそこが2つ」「あそこが初めて1つ」とか賑々しい噂話が流れて吹いた。今年東京の星獲得レストラン数は3つ星12軒、2つ星39軒、1つ星149軒という。素晴らしい。東京だけで。

いま日本で東京で(更に言えば中央区で)美食ができる世界一幸せな国民こそ日本人なのだという事実を我々自身認識しているだろうか?中央区の面積はわずか10平米キロ、人口17.3万人で星1つ以上のレストランが54軒もある。ところがミシュラン本家本元の都市パリですら、面積200平米キロ・人口200万強、星付きレストラン数は100にも満たない。

そりゃそうだろう、と膝を打つ私の意見は、実はなかなか被虐的な言辞や思想の大好きな日本人の間では少数説。それを承知で言えば、味と飲食という文化に関する限り「日本1=世界1」を意味するくらい、日本の食は質やバラエティともにぶっちぎりで世界一。

だって、世界中の人々が領土略奪や殺戮、熱病や果ては飢餓や政変・革命に明け暮れていた何世紀もの間に、日本人は海洋に守られていた。この島国で特に江戸時代の250年という途轍もない天下泰平な時間に人類史上最高の食文化が爛熟しつくしてしまった。矢や鉄砲・大砲が飛んでこない空間と時間に人々は「今日の飯は」「明日の飯は」と工夫や思考を凝らして時間を過ごした。この創意工夫と精進の結果を我々はいま毎日のように「今夜何を食べようか?」と考えられるという贅沢な連想とその先の豊かさに気づくことすらない。この点で諸外国の人々が日本に追いついたり追い越したりということは到底できないだろう。日本人のDNAにとうの昔に刷り込まれた「食における豊かさ」は唯一無比の爆走なのだ。

ついでに言えば筆者はミシュランを信じない。このDNAが美味しさや目や鼻や耳に訴える美しさを判断してくれるので必要を感じないのだ。それに日本には自前の立派な「食の番付」が江戸の昔より存在していた。勝手にやればよい。

ミシュランというタイヤ会社はタイヤや車がいたむほどに長距離を旅してもらった先で美食にたどり着いてほしいという願望を託してミシュランガイドをものした。でも日本人は徒歩、もしくは発達した公共の交通機関を利用して美食(高価食に限らない、価値あるコスパ高い美味しい食事)に容易にたどり着ける。日本人は別に旅しなくても目の前に美味しい食があるし、しかも食材さえあればどうにでも自分の舌に合うように食する形に料理することだってできる。それが取りも直さず、世界中の他の人たちが普通には決して手にすることのできない幸せなのだ。酒は一日1回の夕食の友だけど、食は一日3回。こればかりは呑み人は食べ人に後塵を拝するのだけれど、それはそれで幸せです。「酒肴」というこれまた素晴らしい文化を楽しんでいますから。