地域が育む、おいしさのテロワール
《第二回 長野・木曽》
塩がないのに、なぜ発酵するのか?
塩なし発酵「すんき」の奇跡――長野・木曽が育んだ奇跡の漬物
発酵食品の常識を覆すものがあります。
それは塩を一切使わない発酵漬物――長野県木曽地域に伝わる「すんき」です。
通常、漬物は高濃度の塩で腐敗菌を抑えながら乳酸菌の働きを促します。しかし、すんきは伝統野菜「王滝カブ」の茎葉を塩を使わずに樽へ詰め、重しをして自然の力だけで発酵させます。
それでいて腐敗することなく、爽やかな酸味とうま味を生み出します。
なぜ、このような発酵が可能なのでしょうか。
科学は、その謎を少しずつ解き明かし始めています。

発酵を支える「王滝カブ」という奇跡の素材
すんきの主原料は、木曽郡王滝村で古くから受け継がれてきた在来種「王滝カブ」です。
このカブの葉には、乳酸発酵に適した糖分や成分が豊富に含まれており、「塩なし」という過酷な条件でも発酵を成立させる大きな要因となっています。
収穫した葉を刻み、樽へ詰めて重しを載せる。
それだけで乳酸菌が優位となり、発酵によってpHが低下し、腐敗菌の繁殖が抑えられます。
植物が持つ力と木曽の風土が出会うことで生まれた、地域ならではの発酵文化です。
四種類の乳酸菌が織りなす、おいしさのハーモニー
研究によって、すんきの発酵には四種類の乳酸菌が関わっていることが明らかになっています。
・Lactobacillus fermentum
・Lactobacillus delbrueckii
・Lactobacillus plantarum
・Lactobacillus parabuchneri
これらの乳酸菌が互いに働き合い、独特の酸味とうま味を形づくっています。
さらに注目されるのが、発酵液に含まれるコハク酸です。
コハク酸は貝類にも多く含まれる代表的なうま味成分であり、すんき特有の奥深い味わいを支えています。
近年では、メタゲノム解析やメタボローム解析などのマルチオミクス解析によって、発酵中の微生物の変化と成分の生成過程が詳細に研究されています。
「塩なし」が語る、木曽の知恵
なぜ木曽で塩を使わない発酵文化が生まれたのでしょうか。
その理由の一つとして、「塩が貴重だった」という説があります。
海から遠い山間地域では、塩は貴重な資源でした。
大量の塩を使えない環境の中で、人々は王滝カブが持つ力と地域に棲む乳酸菌を利用する方法を見出したのです。
資源の制約が、新しい発酵文化を生み出した――。
すんきは、地域の暮らしが育てた知恵の結晶でもあります。
その価値は国際的にも認められ、2007年には国際スローフード協会の「味の箱舟」に登録されました。
菌と地域と人が育んだ共進化
すんきは、単なる珍しい漬物ではありません。
人が菌を支配したのではなく、菌が暮らしやすい環境を地域と王滝カブが提供し、その結果として発酵が成立しています。
そこには、人・植物・微生物が長い年月をかけて育んできた「共進化」の姿があります。
地域の風土が微生物を育て、微生物が食文化を育て、その食文化が地域を支えてきたのです。
一皿の漬物が語る、地域のテロワール
すんきは、一見すると素朴な漬物です。
しかし、その一皿には木曽の気候、在来野菜、乳酸菌、そして人々の暮らしが幾重にも重なっています。
科学は、その仕組みを少しずつ解き明かしています。
しかし、おいしさを育む地域と微生物の物語には、まだ多くの謎が残されています。
だから私たちは、発酵を通して、おいしさを科学する。
その先には、地域が育んだ「おいしさのテロワール」という、新たな物語が広がっています。
エビデンス
研究対象
長野県木曽地域「すんき」
主原料
王滝カブ(在来種)
主な乳酸菌
- Lactobacillus fermentum
- Lactobacillus delbrueckii
- Lactobacillus plantarum
- Lactobacillus parabuchneri
主な知見
- 塩を使用しない乳酸発酵食品である。
- コハク酸などの生成が独特のうま味形成に寄与する。
- マルチオミクス解析により菌叢と代謝物の変化が明らかになりつつある。
- 2007年、国際スローフード協会「味の箱舟」登録。
次回予告
発酵の深淵 第三回
ワインのようなお茶があった。
高知県大豊町に伝わる「碁石茶」。
カビと乳酸菌による二段階発酵が生み出す、日本唯一の完全発酵茶。その奥深い味わいと地域の物語を、科学の視点から探ります。

