Sony AIは、なぜ「ガストロノミー」を目指すのか?

2020年に設立された株式会社ソニーAIは、ソニーグループの既存の事業領域である「ゲーム」と「イメージング&センシング」に加え、新規探索領域として「ガストロノミー」をその研究開発のフラッグシップテーマに設定している。「ゲーム」と「イメージング&センシング」はソニーのテクノロジーとのシナジーが期待できる。だが一方で、「ガストロノミーって何?」と思う人も多いのではないだろうか。「『ガストロノミー』をフラッグシッププロジェクトに選んだ理由は何か?」。「AI×ロボティクス×ガストロノミーの未来に、ソニーAIはどのような社会の変化を見ているのだろうか?」
――このような疑問への答えを求めるために、今回は、ソニーAIの藤田雅博、マーカス加藤 絵理香(以下、加藤)の両氏をお招きして、話を聞いた。

(左から)Sony AI 藤田雅博氏、マーカス加藤 絵理香氏

《PROFILE》

藤田 雅博
Masahiro Fujita

株式会社ソニーAIにおいて、プロジェクトマネジメントのDirectorを務める。またソニーグループ本社においては、VP, Senior Chief ResearcherとしてAIとRoboticsによるソニーでの価値創出に貢献し、Gastronomy ProjectやAI倫理プロジェクトを立ち上げ、ソニーグループAI倫理ガイドラインの発行、同AI倫理委員会の設立をリードしてきた。過去にはAIBOを代表とする家庭用エンターテイメントロボットプロジェクトを設立し、その製品化をリード、その後研究所にて、AIBOなどの認識技術などをカメラなどのCE製品に応用、また自律型ロボットに関しての研究開発をリードしてきた。食に関しては、AIとRoboticsという新しい道具、食材と料理に対する化学的アプローチ、またおいしさを感じる人間のセンシングとエモーショナルな側面の理解により、新しい領域を開くものと考えている。

マーカス加藤 絵理香
Erica Kato Marcus

株式会社ソニーAIにおいて、そのミッション実現に向け事業戦略策定とパートナーシップを推進する組織を牽引。同時に、ソニーグループ本社ではコーポレートやエグゼクティブのコミュニケーション支援を広範に担当。過去にはソニーモバイルコミュニケーションやソニー・インタラクティブエンタテインメントでXperia向けのスマートフォンアプリやPlayStation Networkのサービスの分野における企画をグローバルにリード。日本で育ち、ボストン大学で理学士号を、その後スイスのIMDでMBAを取得。余暇では料理に熱心で、サワーブレッドを焼いたり、常に新たなレシピを試している。

「ガストロノミー」の意味は、多義化しながら世界に浸透しつつある

―Googleトレンドで調べると、ここ10年で「ガストロノミー」という言葉が広がってきています。それもじわじわと。「ガストロノミー」が美食家の個人的な関心にとどまっているうちは、この言葉が社会に広まっていくことはなかったのかも知れません。ですが、今やその使われ方が多義化してきたように思います。

藤田 「ガストロノミー」の言葉を使い始めたのは、ちょうどアメリカにあるカーネギーメロン大学と共同研究を始めた2018年からになります。その当時、世界ではフードテックのスタートアップ企業がブームになっていました。
「AIというテクノロジーを活用して何をやるか?」について議論を重ね、新しい料理・レシピの考案とそれらを調理する道具、ロボットの開発というイメージを想定しました。でもいい言葉が見つからなかった。フード、クッキングなどのフレーズも検討しましたが、ピンとこない。海外のメンバーや大学の研究チームとも話すうちに、「ガストロノミー」がやりたいことのイメージに最も近いということになりました。ガストロノミーという言葉には、食事・料理と文化に関する総合的学問体系、さらには人の消化器系の点からの自然科学、サイエンスが含まれています。
我々が目指すのは、効率化を図るロボットではなく、人の技能を拡張するようなロボティックスや人の創造力を拡張し新しいレシピ、新しい調理方法などをAIを活用してシェフを支援していくことです。この言葉をフラッグシッププロジェクト名にし、このコンセプトのもとにビデオも作りました※1。

※1
Gastronomy Flagship Project Chef Interview Series:https://www.ai.sony/projects/
AI×ロボティクスが刺激する「料理」の新しい可能性:https://www.sony.com/ja/brand/stories/ja/our/products_services/cooking/
AI x Robotics x Cooking:https://www.youtube.com/watch?v=ktr7oI0l_7A

―AI×ロボティックス×ガストロノミーというのは、サイエンスで「ガストロノミー」に貢献すること。「食」は、文化であると同時にサイエンスであるということですね。

加藤 ソニーはエレクトロニクス製品から始まった会社ですが、1960年代後半からは音楽を皮切りにエンタテインメント領域にも参入しています。「食」もエンタテインメントの一つだと解釈すると、ソニーAIがそのフラッグシッププロジェクトの一つに「ガストロノミー」を選んだこともより理解いただけるのではないでしょうか。「ガストロノミー」の領域を大きなエンタテインメント産業として捉えると、大きくはクリエイター(作る人)とそれを食べるユーザーが存在します。
これは、ソニーがこれまで携わってきたエンタテインメントの業界と構造的に似ています。クリエイターがいて、それを楽しむ人がいる。この間を、テクノロジーそしてビジネスとしてつなぐ役割を果たすことができます。

―エンタテインメント系のビジネスに於いて欠くべからざるキープレーヤーは、“クリエイター”である。テクノロジーは、クリエイターの創造力を強力にサポートすると捉えていらっしゃるのですね。

加藤 そうです。もう一つは技術の領域として非常に難しいから選んだという面もあります。我々がチャレンジするのは単一作業を繰り返すロボットではありません。シェフを支援し調理ができるマルチタスクのロボティックスです。AIとロボティックスで、この難しい課題にチャレンジする。難しい事にチャレンジするのはソニーのアイディンティでもあります。


藤田 私は、初代のAIBOの開発に携わっていました。そこでの画像認識やロボティクスに取り組んだ経験から分かることは、キッチンの中で食材を扱い調理を担うのは、ロボットにしてもAIにしても非常にチャレンジングな世界だということです。⼯場なら照明やその他様々な環境を完全にコントロールできますが、レストランのキッチンは環境の設定も完全にはできず、人の⾏き来もあり、それらが技術のチャレンジが必要なポイントだと捉えています。我々はロボットが完全に自律的に動作する工場のイメージではなく、⼈間とロボットが協調して取り組む世界を考えており、また「いかに⼈の能⼒を拡張させるか?」というテーマを中心に考えています。扱う⾷材は柔らかいものから固いものまで、その⼤きさも様々ですが、丁寧に扱わなければいけません。ガストロノミーの世界が興味深いのは、⾷材の分⼦構造的なものから、⼈間の感覚まで扱う領域が非常に広く、AIとしてもチャレンジしがいのあるターゲットなためです。

「ソリューションテクノロジー」の提供が最も難しいトップシェフ。敢えてそこからスタート!

―難しいから選んだというのは、納得しました。とは言え、何から始めるのか、いくらソニーでも全面的に取り組むのは厳しいでしょう。スタートにあたりフォーカスしていることはありますか?

藤田 ロボティクスやAIの研究開発と並行して、食材やレシピ、調理方法の情報収集をスタートしています。人が評価した美味しい味、分子構造的な情報などのデータを、主に扱っています。

―シェフが新たに考えた、今まで思いもつかなかったような組み合わせの料理や味をどう可視化、データ化するのか。クリエイティビティにつながる変数が多く、難しそうですね。データ量も少ないでしょう。

藤田 特に人間の感覚に関する部分を定量化するのは、非常に難しい領域です。我々がまず最初にやろうとしているのは、新しいレシピを作る食材のペアリングです。有名なペアリングにホワイトチョコとキャビアの組合せがあります。食材を構成している化学的な成分の性質から、ペアリングに対する評価や理解が急速に進むのではないでしょうか。
加藤が中心になって進めた各国の三ツ星シェフを含む食の世界のプロフェッショナルへのインタビューもあります。「彼らはどうやって新しいレシピを考えているのか?」。ミュージシャンが新しい音楽を創る過程にも似たようなところがあると感じています。


加藤 AIが学習できるデータに関しては課題があります。データ量と比例してAIの精度が上がってくる領域ですので、データ収集に関しては我々も苦労しています。
ですから、この領域に於いては食のエキスパートの皆さんと連携させていただいて、食に於ける新しい異色のペアリングの提案を実現したい。その道のりは長いと思いますが、その研究開発を一生懸命に進めている段階です。
一流のシェフになればなるほど、「調理方法は教えてもらわなくていい。知らない食材や、思いもつかなかった食材の組み合わせが欲しい」と言われます。また健康状態に合わせてのレシピ提案や地球環境に貢献するようなコンビネーションにも、彼らは大変興味を持っていることがわかりました。

―シェフのほとんどは海外の方ですか?

加藤 そうですね、元世界ソムリエコンテストチャンピオンのフランソワ・シャルティエ氏(フランス系カナダ人)が重要なパートナーの一人ですが、彼は食材のアロマや分子構造をもとにしたペアリングのサイエンス領域を構築してきた人物です。彼を介して、世界のシェフの方々とこの一年ネットワークを広げてきました。
日本では、ミッシュラン三ツ星を史上最速で獲得した米田肇氏にアドバイザーになっていただき、「AIやロボティックスによってレストランは、どのように進化する?」をテーマにディスカッションを重ねています。
今後はシェフに限らず、様々な食の分野の皆さんと繋がり、色々な形でのコラボレーションを進めていきたいと考えています。


藤田 なぜ、トップシェフからスタートしたのかを説明しますと、トップクラスの皆さんは新しい技術やイノベーション、また健康やサステナビリティにも非常に関心が高い。頂が高ければその裾野の広いところの皆さまにも納得いただけるソリューションを提供できると思ったからです。一流の方が納得できるソリューションテクノロジーを提供することは、最も難しいことですが、敢えてそこからスタートしました。

「ガストロノミー」を一つの産業に育てていくこと。それが、目標である

―話は変わりますが、「ガストロノミー」といえばスペインのサン・セバスチャンが有名ですね。

藤田 そうですね。2019年にScience and Cooking World Congressという料理学会がスペインのバルセロナであり、我々もそこで発表する機会をいただきました。バルセロナでいくつかのレストランを見学し、そのあとにサン・セバスチャンも訪問しました。
感銘を受けたのは、この地のレストランの地下や2階には実験室みたいなスペースがあり、そこで新しい味作りにチャレンジしていた。彼らはとてもオープンで、会ってみるといろんな事を教えてくれました。そして日本の発酵技術に興味を持ち、とても参考にしていました。
私はガストロノミーはとてもパーソナルなものだと思っています。美味しいのはもちろんですが、健康に関するテーマにも関心があります。例えば、アレルギーの問題です。「個人化する」ところに価値がすごくあると思っています。病気の人に対して、どういう料理がその病気を治すのに効果があるのか。そういったことを研究する学問もありますし、個々人の多様性に合わせるような時代が到来すると予測しています。


加藤 先ほども少し触れましたが、ソニーは、エンタテインメントの領域でも長く事業を展開してきています。例えばミュージックの場合、ある特定の音楽ジャンルだけではなく、様々な嗜好を持つユーザーに対して幅広く、しかもグローバルに音楽を届けています。
同様に、料理の分野でも個人の趣味、嗜好に合わせたものを提案できればと考えています。だからこそ、多様なデータソースを持っていることが非常に重要です。日本の音楽もグローバルにヒットするように、日本の食材のデータをもとに、様々な料理をグローバルに提案できればと思います。
ソニーAIの面白いところは、日本発の会社として法人を設立しているのですが、グローバルに研究員がいることです。ソニーAIの本社拠点は東京ですが、アメリカには全土に、またヨーロッパにも各地に研究者がいます。人材の多様性としても非常にグローバルな組織です。そういった意味で、コラボレーションの先もグローバルにとらえています。


藤田 音楽でも、映画でも、ゲームでも、クリエイションをする人がいて、楽しむ人がいる。この構図の中で、シェフの考え方も様々です。料理をどう芸術的な作品として仕上げるかを追求する人もいるし、エンドユーザーにどう美味しく食べていただくかを真剣に考えている人もいる。
多様性を持ったシェフたちと付き合いながら、消費する側の個々人が、どういう形で楽しむかを考えながら取り組んでいます。カルチャーというか、一つの産業に育てていくことが我々の目標であると思っています。

―貴重なお話をありがとうございました。

インタビュ−を終えて

人々の心に大きな喜びをもたらしてくれるものには大きなビジネスチャンスがあることが分かった。食することは人生の喜びであり、料理につながる人々の想像力と創造力を「AI×ロボティクス」で開放することが出来れば、私たちの社会に変化をもたらす大きな一歩になることであろう。
最後に、「サイエンスはどこまでクリエイターをサポートできるか」、データの可視化の観点から考えてみたい。それは、私たちが食を楽しむ時の変数は味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚、さらには文脈や環境まで含み、可視化されるべきデータは圧倒的に多様で測定すること が容易ではないからである。AIが学習するためには優れたデータが必要である。現時点では、このようなデータがまだまだ圧倒的に不足している。量ではなく質的に不足しているのである。
このような課題を解決するためには、これまで測定できなかったデータをリアルタイムかつ低コストで測定する技術開発も重要になる。例えば、レシピのクリエイティブをサポートするには、本来五感を通して食する体験をデジタルデータとして可視化し、フィードバックする必要がある。お寿司屋さんならカウンター越しに料理人と顧客が対話しながら食事が進む。相手が常連客であれば、その会話や表情からその日の顧客の状態などを主観的に読み取り、調理にフィードバックする。優れた料理人ほど、お愛想で「おいしい」と言ったのか心から満足したのかといった顧客の本心を察知する能力に⻑けているというが、このような情報は可視化されることはない。
AIが優れたパートナーとしてクリエイターをサポートするためには、AIに優れたデータで学習してもらう必要がある。これまで測定できなかったデータも可視化して収集する必要があるのである。「アレルギー体質か」「高血圧か」といった健康状態や、その日の体調、性別、年齢、食事に対する態度、食事の文脈など、個々人の属性によって、本来提供するサービスは個別にカスタマイズされることが望ましい。このようなデータもAIに学習させなくては、AIならではの優れたレシピは開発できないであろう。レシピにフォーカスしてもきわめて難易度が高い挑戦であることが分かる。
サイエンスが食に貢献できる領域は、もちろんレシピやキッチンのロボットだけではない。「食すること」を起点に食全般について考える「ガストロノミー」が、人口爆発の中で起こってきた食糧危機の問題や食糧生産とCO2の問題など、深刻化しつつある諸問題にどう向き合っていくのか。「ガストロノミー」とサイエンスの関係は新しいステージに入ったようである。この両者の関係から始まる未来から目が離せない。

《Interviewer》

古川 一郎

Ichiro Furukawa

武蔵野大学経営学部長/一橋大学名誉教授。
東北大学助教授、大阪大学助教授、カルフォルニア大学ハーススクール客員研究員、一橋大学大学院商学研究科教授を経て現職

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