香りをデジタル化し、「おいしさ」の未来をひらく
味の素・伊地知千織さんが挑む、香りDXの可能性

おいしさの探究者たち Vol.3

「香りは、基本的に言葉でしかコミュニケーションできないんです」
同じ「リンゴの香り」と聞いても、頭に浮かぶ香りは人によって違う。しかも、その違いを客観的に比較することは難しい。

味の素株式会社 食品事業本部 食品研究所 Group Executive Specialistの伊地知千織氏が取り組んでいるのは、そんな捉えにくい「香り」をデータに変え、科学的に理解し、食品開発や新たな価値創造につなげていく「嗅覚のDX」である。

約3,000種類のにおい分子と352種類の嗅覚受容体。その膨大な組み合わせから得られる100万を超えるデータを解析し、これまで人の言葉や経験に頼る部分が大きかった香りを、比較し、解析し、設計できるものへ変えようとしている。

今回、伊地知氏に話を聞いたのは、味香り戦略研究所 コンサルティング事業部 部長の松山彩。
松山自身も香料会社の研究所で、フレーバー・フレグランスの新規素材探索や機能性研究、エキス開発に携わってきた研究者である。

「香りをつくる側」と、「香りをデータから捉える側」。
同じ香りの世界を異なる立場から見てきた二人の対話は、嗅覚のDXから、AI、健康、サステナビリティ、そして「おいしさとは何か」という問いへと広がっていった。

PROFILE

味の素株式会社 食品事業本部 食品研究所 Group Executive Specialist
伊地知 千織 イジチ チオリ

東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、1994年に味の素株式会社へ入社。医薬事業において、創薬の基盤技術開発、肝疾患・生活習慣病領域の探索薬理研究などに従事。2012年より味の素製薬 薬事部で海外薬事を担当する。
2014年、味の素株式会社イノベーション研究所へ異動し、味嗅覚生理研究に従事。2019年の組織改編により食品研究所へ異動し、現在は嗅覚受容体をはじめとする科学的知見とデータサイエンスを融合した「嗅覚のDX」に取り組む。
専門分野は分子生物学、生理学、薬理学。JST未来社会創造事業「香りの機能拡張によるヒューメインな社会の実現」に参画。

20年間の創薬研究から、突然「嗅覚」の研究へ

松山:
「伊地知さんは、もともと医薬品の研究をされていたそうですね。なぜ香りの研究へ移られたのでしょうか」

伊地知氏:
「入社してから約20年間、医薬事業で主に創薬研究をしていました。その後、味の素が医薬事業を切り離すことになり、本体の研究所へ戻ることになったんです。ですから、自分から『香りを研究したい』と希望したわけではないんです(笑)。当時のイノベーション研究所にあった味嗅覚の基盤技術開発チームに異動して、初めて嗅覚研究に携わりました」

意外にも、創薬から嗅覚研究への科学的な距離は、それほど遠くなかった。
外界から刺激を受けたとき、細胞がどう反応するのか。創薬研究でも重要となる「受容体」は、嗅覚のメカニズムを研究するうえでも重要な存在だからである。

一方で難しかったのは、その科学を食品にどう生かすかだった。
食品の香り研究では、人が実際に嗅いで評価する官能評価や、GC-MSなどの分析機器がすでに用いられている。そこへ新たに「嗅覚受容体」という技術を投入する。
研究として興味深いだけでは、企業研究として継続することは難しい。その技術を使うことで、従来にはなかったどのような価値を生み出せるのかを示す必要があった。

伊地知氏:
「官能だけでも、十分に香りはつくれてしまうんです。そこにGC-MSを入れることで解像度を上げる。さらに受容体技術を入れることで、何ができるのか。お金も人もかけて受容体を研究する意味を示していく必要がありました」

「リンゴの香り」が人によって違う。だからデジタル化する

では、「香りのDX」とは何なのか。
伊地知氏は、非常に分かりやすい例を挙げた。

伊地知氏:
「今ここで私が『リンゴのにおい』と言ったとして、私と松山さんが頭の中で想像しているリンゴのにおいは、きっと違いますよね。しかも、その“違う”ということすら証明できない。香りは基本的に、言葉でしかコミュニケーションできないんです」

「爽やか」「青っぽい」「甘い」「香ばしい」。
香りの専門家であれば、さらに細かな言葉を持っている。しかし、同じ言葉が同じ香りを意味するとは限らない。文化や言語が変われば、さらに複雑になる。
そこで、香りを「数値」に置き換える。
数値になれば蓄積できる。比較できる。数理解析ができる。そして、別のデータとも結びつけることができる。

伊地知氏:
「デジタル化されていないものは、他の価値データと結びつけにくいんです。でも、数値化されたデータ同士であれば、その関係性を解析できます。そこに香りをデジタル化する次の価値があると思っています」

3,000のにおい分子×352の受容体。「100万超」のデータが香りを変える

人間の鼻には、さまざまなにおいを感知する嗅覚受容体が存在する。
興味深いのは、「あるにおい成分には、この受容体」という単純な一対一の関係ではないことだ。
一つのにおい分子が複数の受容体を刺激し、一つの受容体も複数のにおい分子に反応する。
つまり、「多対多」である。

伊地知氏らは、約3,000種類のにおい分子と352種類の嗅覚受容体の反応を調べ、100万ポイントを超える巨大なデータベースの構築を進めている。
これによって、「目標とする香り」と「現在の製品」の違いを、受容体の反応から探し出すことができる。
不足している部分を特定し、その差を埋める。

経験だけに頼っていた香りづくりに、もう一つ科学的な“地図”が加わったようなものだ。

「100レシピ」を「10レシピ」にできれば価値がある

香料会社で実際に香りをつくってきた松山は、ここで自身の経験をぶつけた。

松山:
「香料会社にいた頃、何かの香りを再現するときは、GC-MSのデータを見ながら成分を合わせ込む場面もありました。でも、分析値を合わせても同じ香りにならないことがあるんです。受容体のデータが加わることで、そこが変わってくるのでしょうか」

伊地知氏の答えは興味深い。
最先端のデジタル技術があっても、トップクラスのフレーバリストを簡単に超えられるとは考えていないという。
しかし、狙っている価値は別にある。

伊地知氏
「例えば、フレーバリストの能力の8割くらいを代替できるだけでも価値があります。
食品企業が100レシピを検討していたものを、10レシピ以下でかなり目標に近づけられれば、開発は大きく変わりますよね」

人間か、デジタルか。
そんな二者択一ではない。
GC-MS、官能評価、嗅覚受容体、データサイエンス、そして香りの専門家。
それぞれの強みを組み合わせることで、食品開発そのものを速く、精密にしていく。
香りのDXの実用的な価値は、むしろそこにある。

「おいしい」の主語は食品ではなく、人間

話はやがて、「香り」から「おいしさ」そのものへ広がっていった。
そこで伊地知氏から飛び出したのが、印象的な言葉だった。

伊地知氏:
“おいしい”って、科学者からすると、少し雑な言葉なんですよね

もちろん、「どうでもいい言葉」という意味ではない。
むしろ逆である。
あまりにも多くのものが、「おいしい」という一言の中に含まれている。

伊地知氏:
「おいしいと思うのは食品ではなく、人間なんですよね。何でも比較的おいしいと思える人もいれば、すごくストライクゾーンが狭い人もいる。中高生の頃、好きな人と食べたマックのポテトって、おいしかったりするじゃないですか(笑)。でも今、一人で同じものを食べても同じではないんです」

食品の成分だけを分析しても、それだけでは説明できない「おいしさ」が確かに存在する。
食べる人の嗜好、過去の経験、感情、健康状態、そして食事をするシチュエーション。
だから伊地知氏は、将来の「おいしさ設計」には、食品側のデータだけではなく、人間側のデータも必要だと考えている。

減塩、減糖、代替原料――香りのDXは食の社会課題へ向かう

では、香りをデジタル化することで、実際の食生活はどう変わるのだろう。
すでに見えている用途の一つが、減塩・減糖食品である。

塩や砂糖を減らせば、健康面でのメリットが期待できる。一方で、おいしさが失われれば、食べ続けてもらうことは難しい。
そこで、失われた香りや風味を科学的に補っていく。
さらに、サステナビリティの観点から原料を変更した場合にも応用できる。
畜肉原料を減らす。従来とは違う原料を使う。
そのとき、
「何を減らしてはいけないのか」
「失われたおいしさを何で補うのか」
を科学的に探る。

香りのDXは、単に「もっとおいしい商品をつくる技術」ではない。
健康とおいしさ、環境とおいしさを両立させるための技術になり始めている。

60歳を超えると「味」ではなく「香り」が弱くなる?

伊地知氏が研究者としてライフワークにしているテーマもある。
できるだけ人生の最後まで、おいしく食べてもらうこと」である。

一般に「年齢とともに味が分からなくなった」と表現する人は少なくない。
しかし伊地知氏によれば、味覚そのものは比較的堅牢で、加齢による変化が大きいのは、むしろ嗅覚だという。
香りを感じにくくなれば、料理を「味気ない」と感じる。
その結果、砂糖や醤油を足してしまうこともある。

そこで伊地知氏は、鼻の嗅覚組織や粘液、その中に存在する成分などを研究し、嗅覚をできるだけ健やかに保つ方法を探っている。
まだ明確な解決策はない。
だからこそ、基礎研究を続ける。
目指しているのは、単なる長寿ではない。

「寿命まで、おいしい」
そんな未来である。

AIはフレーバリストやソムリエを不要にするのか

AI時代の香りはどうなるのか。
松山が尋ねた。

松山:
「AIが香りを設計できるようになっても、人間の感性や職人の経験は必要だと思われますか」

伊地知氏:
「必要です。それは間違いなく必要です。同じにおいを嗅いで、受容体のコードが同じでも、人がどう感じるかは違いますから」

現時点では、GC-MSでも嗅覚受容体でも、香りのすべてを捉えられるわけではない。
そして決定的なのは、センサーが香りを検出することと、人間にとっての「意味」を理解することは別だという点である。

伊地知氏は「グラッシー」という表現を例に挙げた。
草にも何種類もの異なる香りがある。
センサーがそれらを精密に区別したとしても、最終的な出力がすべて「グラッシー」なら、膨大なデータを取った意味は薄れてしまう。
何を測るのか以上に、なぜ測るのか。
香りのDXには、技術と同時に「目的」が必要なのだ。

「色がRGBでデジタル化できたのなら、香りも理論上はできる」

それでも伊地知氏は、香りの完全なデジタル化の可能性を否定しない。
色はRGBという3つの値の組み合わせによって、デジタル空間で膨大な色を再現できる。
嗅覚の場合、それが約400次元あるようなものだという。

伊地知氏:
「人間自身が、無限に近いにおいの情報を約400次元に縮約して脳へ送っています。だから、理論上はできるはずなんです」

そしてAIの進歩を考えると、「まだ先」と考えている時間は、意外に短いかもしれないとも話す。
ただし、大きな壁がある。
AIには学習データが必要だ。
画像や文章と違い、世界共通の「においデータ」がまだ存在しない。
香りのDXとは、AIに香りをつくらせる研究である以前に、AIが学ぶことのできる「香りの言語」を人間がつくる試みなのかもしれない。

日本の「口の中のおいしさ」は、もう80点を超えている

対談の終盤、伊地知氏から印象的な言葉が出た。

伊地知氏:
「日本で普通に暮らしていると、おいしさって、かなり飽和していると思うんです。昔に比べて、コンビニのご飯も本当においしくなりました。『口の中がおいしい』という意味では、日本はもう80点を超えてきたんじゃないかなと思います」

では、その先にある「おいしさ」とは何なのか。
味をさらに強くすることなのか。
高級な素材を使うことなのか。
SNSに載せたくなる美しい料理なのか。
健康を損なわず食べられることなのか。
年齢を重ねても、おいしいと感じられることなのか。
あるいは、大切な人と同じ食卓を囲むことなのか。

伊地知氏自身に、最も好きな食事の風景を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

伊地知氏:
「家族4人が揃って、自分のつくった料理をみんながおいしいと言って食べているときですね」

科学者が100万を超えるデータポイントを解析した先で語ったのが、「家族の食卓」だったことは興味深い。
「おいしさ」は曖昧だからこそ、科学する価値がある
最後に松山が問いかけた。

松山:
「伊地知さんにとって、おいしさとは何ですか」

少し考えて、伊地知氏はこう答えた。
伊地知氏:
「曖昧で、科学の言葉ではないと思っています。だからこそ、おいしさを科学する価値がある。そして科学することで、『口の中がおいしい』の、その先へ行けるんじゃないかと思っています」

香りを数値にする。
味を解析する。
AIで予測する。
それらは、おいしさを無機質な数字へ変えるための研究ではない。
むしろ、数字だけでは説明できない人間にとっての「おいしい」に、これまで以上に近づくための研究なのだろう。

「80点を超えた、その先のおいしさとは何か」。
答えは、まだない。
だから研究者たちは、今日も「おいしい」という曖昧で幸福な感覚を追い続けている。


Interviewer松山 彩
株式会社味香り戦略研究所 コンサルティング事業部 部長
鹿児島大学大学院 農学研究科 生物生産学専攻修了。香料会社の研究所で、フレーバー・フレグランスの新規素材探索、機能性研究、エキス開発などに従事。
2020年、味香り戦略研究所入社。香料会社で培った「におい」に関する知見を生かし、食品のおいしさの見える化・数値化、商品開発・マーケティング支援に携わる。2025年、東京大学工学部「フロンティア化学」非常勤講師。